タイ国北部にキシタアゲハを追う


 キシタアゲハ属(Genus Troides)の蝶は代表的な熱帯蝶で、その美しい姿にあこがれない蝶愛好家はいないであろう。
 著者が、野外における本蝶との最初の出会いは台湾であった。台湾の南端にあるガランビー公園を訪問したとき、1頭のミノスキシタアゲハが頭上に飛来した。思わず網を振ったが、わずか、10センチ程度の差で蝶にとどかず取り逃がしてしまった。太陽の光をうけて黄金色に輝いたその姿は今でも忘れ得ない。
 次の機会は1975年、タイ国バンコックにあるルンピニ公園に行ったときである。初めて野外でみる熱帯蝶の生態撮影に夢中になっていたとき、突然、眼の前に1頭のミノスキシタアゲハがゆっくり樹上から下りて来た。私はわれを忘れてカメラを放り投げ、急いで網を振った。次の瞬間、網の中でバタバタしている蝶を認めたときの喜びは表現しようもなかった。その個体は今も私の標本箱の中に収まっている。
 1983年、7月から8月にかけて約1カ月間再びタイ国を訪問する機会を得た。この期間中に多くの蝶を採集しだが、今回はキシタアゲハを追った記録を記す。観察、採集を行った場所は、タイ国北部のチェンライ県とチェンマイである。なお、本文で単にキシタアゲハと記すのは正確にいえば、キシタアゲハ属の種を指す。

 July20、1983
 チェンライ県のメーハー村の診療所で仕事をしていた。天候は雨期で、雨が強く降ったかと思うと熱帯の太陽が輝く。そのような時に蝶が多い。タイ国に来てもう10日以上も過ぎた。その間、多くの蝶を採集したが、いまだキシタアゲハは一度もみない。キシタアゲハはここでも非常に珍しいのか、あるいは時期が悪いのかもしれないと思ったりしていた。診療所の周辺をまわって、昼食のため帰りかけたとき、1頭のキシタアゲハが眼の前を飛んで過ぎ去った。ちょうど、網をたたんだばかりで運悪く取り逃がしてしまった。

 July23、1983
 診療所の裏山で採集を行う。その時、キシタアゲハらしい蝶が1頭飛んでいたが確認できなかった。

 July25、1983
 朝から雨が降る。今日はわれわれの休日。一行はチェンライの市内見学することになり、10時頃宿舎を出発。網を持参する。タイ国には寺(wat)が多い。今日は主として寺を回る予定である。最初の寺から次の寺に車で行くと、寺の庭に赤い花、多分ハイビスカスが咲いており、ツマベニチョウが飛来していたので採集した。三角紙に入れ終わるとほとんど同時に1頭のヘレナキシタアゲハが飛来した。
 網をつかんで10メートルぐらい走る。犬がほえながら追ってきたが、かまってはいられない。蝶に近付いてさっと網をふる。遂に捕獲!! またキシタアゲハが1頭飛来する。同僚の1人が私の網を持って走る、彼も捕獲した。これはミノスキシタアゲハであった。
 再び車に乗って次の寺に行く。そこで、同僚はさらにミノスキシタアゲハ1頭を採集した。宿舎に帰ると、何とかしてキシタアゲハを採集した寺に再び行きたくなったので1人で出かけた。15時30分頃再び1頭のミノスキシタアゲハを採集した。

 July26、1983
 メーハー村の隣のパラエ村の寺の庭で診療を開始する。午前中、キシタアゲハらしき蝶1頭を目撃。午後、確実に1頭のミノスキシタアゲハを確認した。

 July30、1983
 チェンライからメーハー村に行く途中に、メチャアン病院がある。その病院の門で車を待っていると、2、3頭のキシタアゲハが飛来した。そのうちに大きな雌1頭が飛来、取り逃がしてしまった。山を越えて部落に入ったが、そこでも雨の中を2、3頭キシタアゲハが飛んでいるのを目撃した。

 July31、1983
 7月25日にヘレナキシタアゲハとミノスキシタアゲハを採集したチェンライ市内の寺に同僚と2人で9時30分頃行く。雨が降っていたが既にキシタアゲハが2、3頭舞っていた。しかし、取り逃がしてしまう。次々に飛来する。観察すると、数分間に1頭の割でどこからか飛来してくる。あまり速くはないがなかなか採集できない。その理由のひとつとして、どこでもそうであるが、寺の中には10匹以上の犬がおり、蝶を追って走ると吠えながら一斉に飛びかかってくるので、あまり走り回れない。それと蝶は花にもくるが、寺の中の花を傷めることはできないので、花にきたとき花と共に網をかぶせられない。
 太陽の光を受けて黄金色に輝くキシタアゲハは実にすばらしいが、雨の中を悠々と飛ぶこの蝶の姿も印象的であった。
 ここでやっとミノスキシタアゲハ1頭捕獲、同僚も同種を1頭捕獲した。しかし、雄ばかりで雌は全然みられなかった。

 おわりに
 Pinratanaはタイ国のキシタアゲハ属として、次の種を記録している。
 1.Troides helena cerberus(C.&R.Felder)
 2.T.aeacus praecox(Fruhstorfer)
 3.T.aeacus aeacus(C.&R.Felder)
 4.T.aeacus thomsoni(Bates)
 5.T.amphrysus ruficollis(Bates)
 Okano & Ohkuraならびに岡野によれば、T.aeacusは南インドのT.minosと同種と考えられるという。両亜種を分ける立場をとるとすれば、2はT.minos praecox、3はT.minos aeacus、4はT.minos homsoniとなる。また、Pinratanaによれば、T.minos aeacusはタイ国では北部のメーホンソンとチェンマイから採れているとしているが、標本の図示はない。今回著者が採集した個体は次の種であった。
 1.Troides helena cerberus(C.&R.Felder)
  1 male Chiang Rai 25 Ⅶ 1983
 2.T.minos praecox(Fruhstorfer)
  2 males Chiang Rai 31 Ⅶ 1983
 なお、T.minos thomsoniおよびT.amphrysus ruficollisはともにタイ国の半島部に分布しており、まれな種とされている。
 従って、今回の調査では7月中旬から8月上旬にかけてはタイ国北部にはT.helena cerbemsT.minos praecoxが普通に見られたが、T.minos aeacusの存在は確認できなかった。
 終わりに、種名を同定していただき、Troidesの分類について御教示をいただいた岩手大学教授岡野磨瑳郎博士に感謝する。

(佐賀の昆虫No.14)



ミノスキシタアゲハ(1983年7月31日 タイ国チェンライ市で採集)