佐賀むし通信14
感銘を受けた本

小学校4、5年生の頃だったと思う。植村という人が書いた「お庭の動物研究」という小学生向けの本があった。著者は、たしか学校の先生と書いてあったように記憶する。この本は父親が小学生の子供に、各家庭の庭に見られる動物のことを分かりやすく、対話形式で書かれた本であった。

まず、モンシロチョウが黄色い菜の花に多く来るのか、白い大根の花に多くくるのか、それを観察しようというのが印象に残っている。この本は、それまで、むしの標本集めばかりに熱中していた私に、自然の観察ということを教えてくれた最初の本であった。蛙では、ガマは非常に珍しい動物なので、まず年寄りにガマ目撃の経験を聞かなければならないと書いてあったことを記憶している。後年熊本県に住むようになって、初めてガマをみた時の感激の大きかったのは、この本のせいである。

蜘蛛では、縁の下にトタテグモがいると書かれてあり、その生態を詳しく記されていた。私は近所の家々を回ってトタテグモを探したが、全く発見出来なかった。今日まで、未だ実際にはトタテグモは見たことがないが、その巣を見たように錯覚するのは、この本の印象があまりにも強かったからであろう。

第2次世界大戦が始まって、日本が南方諸国に進出してから、「南の動物」という本が出版された。著者は当時の新進気鋭の動物学者の高島春雄、古川晴男の両氏であった。この本は厚さ3センチ以上の黒い表紙の本であった。南方には蝶だけではなく、珍しい動物が沢山いることは知っていたが、具体的には、どのような動物がいるかを紹介した本は未だ、ほとんど無かった。

著者らは、未だ南方に行ったことはないと書いてあったが、この本は、われわれの好奇心を満たすのに、誂え向きの本であった。哺乳類のことは覚えていないが、極楽鳥、毒蛇、昆虫、ムカデ、ヤスデ、サソリのことなど記憶にある。その本の中に出てくる新しい和名で、今でも覚えているのはアレキサンダーアゲハ(トリバネアゲハの事)、ヒノモトサソリ、マンネンヒツヤスデなどである。

長い間憧れ続けた南の国の蝶とは、1965年に私が米国留学からの帰りに、立ち寄ったフィリッピンで初めて出会うことができた。そのとき真先に頭に浮かんだのが、この本の記憶であった。また、その後タイ国を訪問したとき、バンコック毒蛇研究所を訪問したのも、その研究所のことを、この本で知っていたからである。

この本は、私にとっては未知の多くの珍しい動物のことを知るだけでも、非常に興味深い本であった。しかし、もっとも興味をそそられたのは、この本では、進化論が紹介されていたことであった。ダーウィンの進化論のことは、おぼろげながら知っていたが、この本によって、初めて進化論を私なりに理解したといってよい。さらに忘れ得ないのは動物地理学上のウォーレス線のことである。英国の生物学者Alfred Russel Wallace(1823-1913)は、インドネシアのバリ島では、東洋区の動物が分布するが、その島の東に横たわるロンボク島以東の小スンダ列島には、オーストラリア区に属する動物が分布することを知った。そして、バリ島とロンボク島の間のロンボク海峡に、動物分布の境界線があることを、1860年に提唱したという意味のことが書いてあった。

この本には、その当時の敵国の学者の業績を遠慮がちに紹介してあったように思う。しかし、その業績は少年の私にも理解できるものであった。私は今でも、観光案内の「バリ島」のポスターを見ると、まず、観光やバリ島の美女よりも、ウォーレス線が頭に浮かぶ。敵国の学者の研究のことを読んでいると、初めて日本人学者が登場する。ここで拍手喝采というところである。

ウォーレス線の延長線は、フィリッピンと台湾との間を通ると思われていたのが、鹿野忠雄博士により、台湾の紅頭唄と台湾本島の間を通ることが明らかになり、これが鹿野線と名付けられたという文章に深く感激したことを覚えている。紅頭喚(蘭喚)は、コウトウキシタアゲハやコウトウマダラなどの産地として、むし屋には広く知られている台湾本島の南端から、約80キロ東方の太平洋上の小さい島である。私は紅頭興に憧れ、一度は同地を訪問したいと思っているが、今日まで未だ、その機会がない。

ウォーレス線の他に、新ウォーレス線、ブラキストン線、渡瀬線などの動物地理学上の線の存在を知ったのは、高校生になってからである。これらの動物分布の境界線が、現在どのように考えられているか不勉強のため分からないが、ウォーレス線のことは忘れない。以上、少年時代に感銘を受けた2冊の本をのべたが、勿論、この他に昆虫図鑑や動物図鑑、医学専門書などの素晴らしい本に出会った。また、小説や他の文学書などの中にも、精神の糧になるような本があった。しかし、今日まで、ずっと思い出に残る本を挙げよと言われれば、私は躊躇することなく上記の2冊の本を選ぶ。