佐賀むし通信19
日本産蝶の命名者のプロフィール

試みに、「原色昆虫大図鑑1(蝶蛾編)、再版、北隆館、1962)に掲載された211種の蝶の学名の命名者を調べてみた。

多い順から記すと、Butler 38、Fruhstorefer 26、Matsumura 23、Linné 14、Ménétriès 9、Shirôzu 6、C.et R.Felder 6となる。

日本の蝶の学名をみるとき、Butlerの名がしばしば出てくるのは、皆経験するところであろう。今回の検討でも、やはりButlerがトップである。私は、前からButlerに関心をもっていた。私の知る限りでは、彼の生涯については、日本に紹介されていない。ただ、江崎悌三著作集1)によると、Arthur G.Butler(1844-1925)は、大英博物館で、Fenton、その他の日本在住の採集家や、旅行家によって送られた材料を記載していた。

1876年、石川千代松が採集したミスジチョウの標本が1頭しかなく、Fentonが、石川千代松が写生した図だけをButlerに送ったところ、Butlerは、その図をもとに、Neptis excellensと命名記載した。このexcellensは、図が優れてとの意味である。

これが、後で実物を見ずに、図だけで新種を記載したと問題になった種である。また明治期に来朝した英国のPryerは、Butlerは博物館的分類学者であると、鋭い批判を加えている。

このようなことがあっても、Butlerは大英博物館の優れた分類学者であったことは間違いないであろう。ただ、彼が山野に蝶を求めて歩くnaturalistであったかどうかは、知りたいところである。

前回、日本の蝶の命名者を多い順に挙げた。これらの人々の活動は、例外を除いて、わが国の文明開化期の明治に行われた。故江崎悌三博士は、明治の初期に活躍した来朝外人に興味をもたれ、優れた記事を多く書いておられる。これらは、1930年代の初期から書いておられるが、1984年発行の“江崎悌三著作集”1)、にまとめられてある。この本は、われわれ“むし屋”にとって、非常に興味ある本であるので、未だ読んでない方には、ぜひ、一読をお勧めしたい。以下に述べる「日本産蝶の命名者のプロフィール」の大部分は、この本からの抜粋であることを、お断りしておく。

Hans Fruhstorfer

台湾の蝶の亜種名の過半が彼の命名による。1866年3月7日に、オーストリアの国境近くのBayernのPassauに生まれた。小学校を終えたのみで、仕立屋から商人になった。欧州その他の語学、歴史、神話学に精通し、顕微鏡の使用を習得した。18歳から南米、インド、ジャバを旅行し、昆虫の調査を行った。晩年はBerlinからGenevaに移り長い間住んだ。この間に収集した材料で多くの論文を発表した。1899年(明治32年)日本に来て、約2か月滞在して各地を採集旅行した。長崎、壱岐まで足を延ばしている。1922年4月9日に、55歳でミュンヘンで癌で死亡。彼の命名した新種は5000近い。

松村 松年

明治28年(1895年)に、札幌農学校を卒業した。翌、29年助教授となって、同校に初めて昆虫学が独立した。明治31年、「日本昆虫学」1巻を著す。明治32年から35年までヨーロッパに留学。日本昆虫分類学の基礎を確立した。その功績は不滅である。

Edouard Ménétriès

1802年10月2日Paris生まれ、最初は医学を学んだが、博物学に転じた。1821年ブラジル探険に参加し、5年間ブラジルに滞在して大きな業績を挙げた。St.Petersburg科学院の博物館の創設に参加。1861年4月10日死亡。アムール地域の鱗翅類の大著がある。

C.et R.Felder

Cajetan FelderとRudolf Felderのことで、兄弟でなくて親子である。父のCajetan Felderは、Wienの市長であった。蝶・蛾の大収集家であったが、公務で多忙なため、自分では研究してはいなかった。Rudolfは、彼のひとり息子で法科大学を卒業したが、幼時から好きであった蝶・蛾の研究に没頭した。彼はSieboldの日本からの材料も研究した。1859年に最初の論文を発表したが、その時は弱冠17歳の少年であった。1866年、24歳で肺の疾患(肺結核?)にかかり、1871年3月29日僅か28歳で死亡した。父Cajetanは、80歳の高齢に達した。

Takashi Shirôzu

記すまでもなく、九州大学名誉教授白水隆博士である。これまで述べた人達が、明治の初め、欧米の昆虫学の導入期に活躍したのに対して、白水隆博士は、わが国の蝶学が世界のトップレベルになった時期に活躍されていることに、大きな意義がある。同博士は、近代分類学の立場から、これまでの分類を検討されて、わが国の蝶を命名記載された。


蝶の学名の命名者をみると、わが国の近代国家への発展期には、主として、外国人学者によってわが国の蝶が研究された。その中に、松村松年のように彼らに伍して引けをとらない日本人の研究者がいて、光り輝くものを残している。これは、まさに、わが国の自然科学発展の歴史の縮図そのものであるといえよう


1)上野益三、長谷川仁、小西正泰編集:江崎悌三著作集、第1、2、3巻、思索社、1984