蝶と人


1、蝶は人に危害を加えるか?

 昆虫の中には、ハチのように人を攻撃して刺し、場合によっては被害者を死に至らしめる危険な虫もいる。実に、わが国で年間約40人がハチに刺されて死亡している。
 カ類は、人を吸血するばかりでなく、感染症(伝染病)を媒介する。中には、黄熱を感染させるネッタイシマカ、デング熱のヒトスジシマカ、日本脳炎を媒介するコガタアカイエカ、熱帯熱マラリアを伝搬するハマダラカなど危険な種類もいる。
 チョウ目のドクガ、チャドクガ、モンシロドクガなどのドクガ類は幼虫時代からの毒針毛を持ち、人が接触すると、皮膚炎を起こす。毎年かなりの被害者が出る。
 同じチョウ目の蝶は、どうか。ドクチョウと云われる蝶の仲間がいる。体内に植物由来の毒を持ち、鳥に食べられるのを避けていると云われている。このドクチョウに非常に似た、毒を持たない蝶がおり、ドクチョウに似せて鳥に食われないようにするためと解釈され、擬態として有名である。北米のオオカバマダラも、体内に毒を持っており、鳥に食われるのを避けている。しかし、人は蝶を食べる事はないので、毒を持つ蝶は、人に害を与えることはない。
 平安時代の人々は、蝶は「わらわ病」を伝搬すると信じていたらしい。「わらわ病」とは、マラリア(多分、三日熱マラリア)であると云う。それで、古の和歌には、蝶は殆ど登場しなかったとの説もある。しかし、人々は蝶の美しさは知っていたらしく、当時の美女の舞に蝶の姿で登場する。
 蝶はマラリアや、その他の病気を一切伝搬しない。また、人を襲って危害を加えたりしない。
 ただ、わが国の蝶で、ツマグロヒョウモン、ヤエヤマムラサキ、ルリタテハの幼虫(図1)は、棘針を持ち、手で触ると刺されることがある。しかし毒はない。以上述べたように、成虫の蝶は、全く人に危害を与えることはない。


図1:ルリタテハの幼虫 1993年10月10日撮影(佐賀市城内1丁目)



2、蝶は人を恐れるか?

 野外で、飛んだり、止まったりしている蝶に近ずくと、蝶は、さっと逃げる。原色の花など描いたシャツ等を着ていると、蝶は寄ってくるが、めったに止まったりはしない。通常、蝶は人には止まらない。
 蝶は人を恐れているらしい。
 しかし、人を恐れるのは、先天的とは考えられない事実がある。おそらく、野外で孵化した後に、学習によって、動物や人を警戒するようになったのではないだろうかと思われるが、どうであろう。
 2004年11月15日、私はオーストラリアの北クイーンズランド、キュランダにあるオーストラリア蝶保護区(Australian Butterfly Sanctuary)を訪問して、同地に数日間滞在した。この施設は、3,666 m3の広大な庭園で、多くの蝶が乱舞する蝶の園である。二重の門を開いて、中に入ると、驚いた事に、後翅が緑黄金色に輝く、1頭のトリバネアゲハ(Auatralian Birdwing)が、すぐ近くに飛んで来た。写真や標本でしか見た事がない蝶が、今眼の前に入る。しかも、逃げようとしない。この蝶に出会って、私は、もう我を忘れて、カメラのシャッターを切った(図2)。この感激と喜びは表現できない程大きかった。この時、私は南海万里の海を越え、はるばる、ここに来てよかったと、つくづく思ったものだった。


図2:Australian Birdwing  2004年11月15日撮影(Australian Butterfly Sanctuary,Kuranda, AU)



 小道を、まっすぐに進んでいると、沢山の熱帯蝶が飛んでいる。アゲハチョウ類、シロチョウ類、タテハチョウ類が多い。間もなく、シロチョウの1種が飛んで来て、私の腕に止まった。近くで見ると、何と可愛らしい蝶だろう。その中、2、3頭の蝶が来て胸や腕に止まる。周囲を見ると、私だけでなく、他の観光客にも来て止まっている。ここの蝶は人を恐れない。入園するとき、絶対に蝶に触ったり、追い払わないようにとの注意書きを渡されていたのを思い出した。
 保護区内で卵から孵化された蝶は、ここでは、人や動物の外敵に襲われることはないので、人を避けないのだろう。一方、野生の蝶は、人や動物が危険だというのを学習するのであろう。この考えが正しいかは、専門家に聞きたいところである。
 さらに小道を進むと、小さな池があって、その周りに10頭位の美しい瑠璃色のアゲハチョウ乱舞している。Ulysses Butterfly (Papilio ulysses Linnaeus, 1758)である。時々こちらに来て草木に止まるが、絶対に翅を開いて美しい瑠璃色の表(図3)を見せない。
 裏翅は褐色の目立たぬ地色で表と全く違う(図4)。
 とうとう翅を開いた姿は撮影出来なかった。職員に聞いても、まず翅を開く事はないと云う。仕方がないので、標本を許可を得て撮影させてもらった。
 2005年4月5日、多摩動物園の昆虫園を訪問した時のことである。ここには、日本本土の蝶は勿論、沖縄の蝶が広大な敷地に舞っている。園内で腰掛けて休んでいる時、1頭のオオゴマダラが、飛んで来て私の額に止まった(図5)。間もなく飛び去るだろうと思って、立ち上がって歩いても逃げようとしない。また、私は腰掛けたが、それでも逃げようとしない。入園者が次々に通りかかり、興味深げに私の顔に止まった蝶を眺めて行く。中には、撮影する人もいた。近寄って、じっと見る人によると、蝶は口吻を延ばして何か吸っていると云う。ヘヤトニックか、汗でも吸っているのかと考えたりした。30分経って帰る時間が来たが、蝶は未だ去ろうとしない。連れて帰るわけにはゆかないので、静かに蝶に触れて別れを惜しみつつ去ってもらった。蝶と充分楽しんだ一時だった。

(2014年9月25日)



図3:Ulysses Butterfly 2004年11月15日撮影(Australian Butterfly Sanctuary, Kuranda, AU)



図4:2004年11月15日撮影(Australian Butterfly Sanctuary, Kuranda, AU)



図5:額に止まったオオゴマダラ 2005年4月5日撮影
(東京都多摩動物園)