捕虫網、毒壷、三角缶、展翅板……。これらの昆虫採集用の道具は、昆虫少年に、虫の世界の魅力に劣らない興味を起こさせる。これらの道具は、どれ一つをとってみても、今までに全く接したことのないものばかりである。これらは昆虫少年にとって、なんと素晴らしい玩具であろうか。少年は、これらの道具を扱うことによって、理科の世界に足を踏み入れてゆく。
小学校4年生の時であったと思う。春頃、学校全体で昆虫採集用具の購入申込を受け付けた。私は胸をときめかして捕虫網や展翅板などを注文した。校内放送で、理科担任が放送する度に、採集用具が到着したかと期待したが、いつも裏切られた。それらが送られてきたのは夏になってからであった。
私の場合は、虫の不思議な世界に誘いこまれると同時に、化学の世界の虜にもなった。それは、おそらく昆虫採集用のアルコール、ナフタリンなどの化学物質の興味からであったと思う。父が女学校の同僚からもらってくれた無機化学の教科書を読んで元素の存在や化学反応のことをしった。そうなってくると、化学実験道具が欲しい。私は小遣いをためて数本の試験管を買った。試験管に石灰石の破片を入れて、塩酸を注いで、石が溶けるのを楽しんだりした。その頃は、家庭の便所の消毒用に濃塩酸があったので、それを手に入れるのは容易であった。私は小遣いを蓄めては、フラスコ、コルベンなどを少しずつ買ったものである。
理科の器械屋なんて、そう多くあるものではない。ライバルの昆虫少年が、新型の捕虫網をみせびらかしたので、私は欲しくて仕方がない。どこで、その捕虫網が売ってあるかと聞いても彼は教えようとしない。
ある日、私は彼の機嫌をとって、やっと、その店を教えてもらった。私は、未だ一度も訪ねたことがない高知市内の外れの町に歩いていった。自宅から、かなり遠かったことを覚えている。彼が教えてくれた町の番地を訪ね当てたが、そこは普通の住宅街で店など全くない。私は彼を大嘘つきと罵ったが、嘘ではないと彼は言う。私は2、3回、その場所を訪ねると、なんと普通の住宅の座敷に、理科器械、とくに昆虫採集用具が所狭しと置かれてあるのが眼についた。それまで、座敷の戸が閉まっていたので分からなかったのである。その家は普通の店でなく理科器械の卸屋だった。このようなこともあって、私は高知市内の理科器械店を全部知るようになった。当時は、たしか理科器械を販売する店は、3、4軒であったと思う。
私がむし屋を自称しているのを人が知ると、「さぞ多くの標本をお持ちでしょう」と問われるのが普通である。ところが期待に反して、私は殆ど標本を持っていない。私のドイツ箱の蝶の標本は僅か数箱に過ぎない。むし屋の会合で芸術的とも言える立派な昆虫標本を見せられる度に、自分をふりかえって、いつも情けない思いをする。実際、私はむしの採集、標本作りに非常に消極的である。私が標本作りが苦手ということが標本が少ない主な理由であろう。
しかし、私が昆虫少年であった時は違っていた。私の宝石箱ともいえる標本箱には、カラスアゲハ、アサギマダラ、イシガケチョウなどがさん然と輝いていた。私は、最近これでは駄目だと思うようになり、積極的に昆虫を採集し、標本作りを試みるようになった。そうなってくると、先ず必要なのは標本箱である。熊本市で昆虫採集用具を戦争中から販売していたのは、有名な老舗のN店である。早速N店を訪ねると、昆虫採集用具は扱ってないという。仕方がないので熊本のむし屋さんに聞くと、1軒だけ昆虫採集用具を扱っていた店があったが、最近、どこかに移転したらしく消息が分からないという。佐賀市には、勿論そのような店は無いので、皆我が国の代表的な店から購入しているという。
こうなってくると、昆虫採集用具を購入するのは、50年前と変わらない、というより状況がさらに悪化しているのではないか。かつては、小、中学校で夏休みの宿題として昆虫採集があり、子供達は昆虫採集を通じて自然に限りない親しみを抱くことができた。現在は子供達の昆虫採集がないので、用具の販売は商売として成り立たないのであろう。そうすると採集用具を得ることが、珍蝶を得るのと同じように困難な時代になったといえる。