佐賀むし通信9
昆虫博士

1993年12月28日の佐賀新聞に、“頼もしい小6昆虫博士”という文が掲載された。佐賀市で迷蝶を採集した2人の少年のことが書いてあった。私は、この文の見出しで、“昆虫博士”という言葉に、非常な懐かしさを感じたが、“むし屋”なら誰でも同じ思いをしただろうと思わず微笑んだ。

幼き頃からの“むし屋”であれば、この“昆虫博士”というあだ名を頂戴しなかった者はいないといっていいだろう。それまで自分の家族のことや、学校で習ったことしか知らなかった少年は、“むし”を通して、全く別の広い世界をかいま見ることになる。そして、どれもが大きな驚きと、もっと知りたいという好奇心をかきたてる。明けても暮れても、“むし”の虜となった昆虫少年は、学校の授業中でも、“むし”のことばかり考えるようになる。

この年代では、未だ異性に全く興味をもたない。授業など、そっちのけで早く採集に行きたくなる。昆虫少年の中には、“むし”については、専門家も驚くほどの知識をもつようになる者もいる。“むし”に興味を持たない大多数の少年達からみれば、“むしけら”に興味をもつ少年は奇異に映る。“むし”のことは何でも知っている少年という印象から昆虫少年は、“昆虫博士”というあだ名をもらう羽目になる。

私は少年の日に、“昆虫博士”というものが本当にあると思っていた。そして、“昆虫博士”になりたいと憧れていた。一般の人の中には、“昆虫(学)博士”という博士号が存在すると思っている人もあるらしい。現実に、私の友人は、“昆虫学博士”○○先生という手紙をもらったことがあり、その手紙を私に見せてくれた

欧米と違って、わが国には“博士”の種類が非常に多い。日本語大辞典によれば、“博士”の種類は19あると書いてある。その中には、“昆虫(学)博士”はない。わが国で昆虫の研究で、博士号を得るならば、それは、理学博士、農学博士、医学博士のいずれかが普通であろう。欧米でも、Doctor of Entomoiogy(昆虫学博士)という学位はないと思う。

欧米で、昆虫学の研究で学位を取った人なら、Doctor of Philosophy(Ph.D.)か、Doctcr of Science(D.S.)であろう。Ph.D.は、アメリカ合衆国では、広い範囲の学問領域の研究の学位で、人文科学の研究でも、自然科学の研究でも与えられるものである。Ph.D.が哲学博士と訳されることがあるが、これは明らかに間違いである。この場合のPhilosophyの意味は、人文科学領域の“哲学”を意味するのではなく、“高等な学問”という意味である。

したがって、Ph.D.の適当な日本語訳がない。強いて訳せば、“博士”とでもせねばならない。Ph.D.の学位を持っている人が、専門領域の研究を明示する時には、Ph.D.in chemistryや、Ph.D. in English literatureなどと言われることもあるので、“昆虫(学)博士”は、Ph.D. in Entomologyと言って良いように思うが、その点確認していない。

Doctor of Science(D.S.)は、日本の理学博士と同じである。“昆虫(学)博士”がないと知った後の、私の憧れは理学博士となった。昆虫や動物の図鑑に、その著者の肩書として、理学博士と書いてあるのが、昆虫少年である私の夢をかきたてた。私は医学博士の学位を得たが、今でも理学博士に憧れている。しかし今日まで、それを得る機会はまったくない。おそらく、私は生涯、理学博士に憧れを抱き続けるであろう。


追:1991年以降は、括弧付きで博士の名称を後ろに付記する表記になり、博士(医学)のように表記するよう定められた。括弧内には多くの専攻分野が認められているがその中に博士(応用昆虫学)がある。(2015年1月30日)