1947年(昭和22年)の3月の春休みだったと思う。当時、中学生の私は、熊本県八代市から普通列車に6時間ぐらい乗って福岡市にやってきた。戦争を終わって、まだ、やっと1年半を過ぎたばかりである。大空襲でやられた福岡市は、見渡す限りビルは破壊され、瓦礫の山であったのが印象に残っている。
私が福岡に来た目的は、九州大学昆虫学教室を訪問することだった。戦争中から戦後にかけて、私は八代市でクロマダラタマムシが、自宅近くの榎にたくさんいるのを見つけていた。当時の図鑑には、クロマダラタマムシの分布地として、九州は載っていなかった。そこで、中学生の私はその年の冬に、九州大学昆虫学教室にクロマダラタマムシの分布の文献を見せて頂きたいと手紙を書いた。早速、安松京三先生から返事を頂いた。手紙の中に、寒い研究室なので暖かくなってから来るようにと書かれてあったことを記憶している。このようなわけで、春休みの福岡訪問となった。
当時は、まだ、九大は帝国大学であったと思う。箱崎の電車の停留場も、帝大前となっていた。農学部昆虫学教室は構内の西の端にある。私は正門から工学部、理学部の構内を通り抜けて、昆虫学教室まで歩いていった。歩道は舗装されてない所があり、砂地に松原であたように思う。昆虫学教室は木造の古い建物であった。安松京三先生にお会いして、クロマダラタマムシの文献を見せて頂いたはずであるが、そのことは全く覚えていない。その後の印象があまりにも強烈であったからであろう。
昼食の時間になり、研究室の食堂に案内して頂いた時、痩身の方が部屋に入ってこられた。江崎悌三先生だ。昆虫の雑誌などで、何時も写真を拝見している世界的な昆虫学の泰斗が、今、眼の前におられる。その時、私は表現することができないほどの大きな感銘を受けた。安松先生は、白皙の秀才という感じの方であったが、江崎先生は、色白ではなく、髪がものすごく多い方であった印象が残っている。安松先生は私を江崎先生に紹介して下さった。
私は数人の研究者と共に、持参の弁当を食べた。食事中に、別の若い研究者が江崎先生に蝶の論文原稿を提出のため入ってこられた。その原稿の図をみて、意見を述べられた黒い背広の方がいた。その方が、白水 隆先生であった。私は白水先生に蝶のことを質問した。私がツマキチョウの属名をMideaといったところ、Anthocharisを使うべきだと教えて頂いたことを今でも覚えている。
こうして、中学下学年の私は、わが国のトップレベルの昆虫学者と食事を共にしたわけである。この感激はその後、ずっと私に影響を与えた。学制改革により、中学から新制高校生になっても、私の憧れは、あの福岡の美しい九大構内の松原や昆虫学教室であった。大学進学を考える時期になって、私の夢は九大で学ぶことであった。他の大学を知らなかったこともあって、九大以外の大学は、私の頭の中になかった。少年の日の昆虫学教室訪問の感激が、苦しい受験勉強の強い支えとなった。幸いにして、私は高校卒業と同時に、九大に入ることができた。したがって、私は九大以外の大学を受験した経験はない。
私は久留米の九大第二分校に入学した。そこでは、後年の昆虫学者としては、故日浦 勇君や森本 桂君(現在、九大農学部昆虫学教授)がおり、共に学んだ。動物学は、宮本正一先生の教えを受けた。宮本先生は非常に深い知識をもっておられた。大学の先生は、どうして、なんでも知っておられるのだろうかといつも尊敬していた。先生ご自身は、戦争中、南方で悪性マラリア(熱帯熱マラリア)に罹り、なんでも忘れるようになったと言っておられたが、そんな気配は毛頭なかった。
私が九大に入学しても、江崎先生には、お目にかかる機会はなく、一度だけ構内で、お姿を遠くから拝見したに過ぎない。先生は昭和32年(1957)年12月14日、肺癌でお亡くなりになった。先生が生前に、いかに多くの学者や昆虫愛好者から慕われていたのか、“江崎悌三著作集”(思索社、1984)に挿入された月報からも知ることができる。
安松先生は私が卒業してから、「九大学術探検会」でお会いしたことがある。先生は、九大農学部昆虫学教授をご退官後、タイ国でご活躍であったが、故人になられた。白水先生は、ご承知のように、現在、わが国の蝶学をリードし続けておられる。思えば、少年の日に経験した昆虫学者との遭遇が、私の方向を定め人生を決定した。この運命を私は非常に幸せだと感じている。
(1993年4月著者記す)