小学校3年頃までの思い出は、八田江や堀で泳ぎフナ取りに熱中したことである。鱗を光らせながら枝吉樋門を遡上するフナを網でサッとすくい上げバケツー杯になる位取っていた。
石垣ドンポをつった感動も忘れることができない。先輩達10人位の集団で遊んでいたが、技術の足りない低学年ではできないことも多く、上級生になったらと思ううちにクリークでの遊泳が農薬のために禁止された。充分に遊べなかった思いをして今日まできたが、悔しい思いは生態調査を通して、ドンコやカマツカ(砂もぐり)を取り35年ぶりに味わうことで満たされた。夏になると堀や川で遊んだ風景を思い出し、ふるさとの原風景としてよみがえってくる。
かつて堀の水は飲水や風呂の水として生活に利用され、魚介類を養い、田に揚水して暮らしを支えてきた。川神祭は安全と生命の水に感謝する祭りとして各集落で行われ、ふるさとの豊かな「水文化」が形成されていた。1ヵ月程かかって行われていたゴミクイ(泥土上げ)は田の肥料として利用され「しまい祝」は社会的絆を強める役割をはたしていた。
水・物質循環が完結した農村部は、戦後の工業化の中で大きく変容していった。ゴミクイは化学肥料に、馬からトラクターに、草とりは除草剤にとってかわられた。1965、6年の「新佐賀段階」と言われる反収日本一は農薬の多量投入によっているが、その反面、1962年の除草剤PCPによる魚毒事件は、堀や有明海のみならず琵琶湖など全国規模で被害が発生し、健康や生態系に深刻な影響を与えてきた。また生活排水のたれ流しにより堀は下水路と化していった。堀は浅くなり、泳ぐことも、フナを食べることもできなくなり、「水文化」は衰退してきた。
このような「水文化」の再生には様々の切り口が考えられるが、水質の改善とゴミクイ(浚渫)が必要不可欠である。水質の改善には、各家庭で生活雑廃水を浄化して流すことと、環境保全型農業への転換が早急に検討される必要がある。淡水魚の写真を見ると魚たちもそのことを望んでいるように思われる。