「…寒の釣りは大場所のヌクメない所はまん中で釣れ、竿は3~3.5間がよく、ヌクメある所はヌクメ付近にポイントを選び、ゲンチ藻の多い所は藻切れを探り、またはツキの心持ちにて釣ること。鵜入れ後は10日以上釣れず、曳網は1週間位で釣れるようで鵜入りの証拠には必ず前カキのあとが点々とあること。…」(昭和32年2月17日)
「あの川 この堀」という釣り日記の一節だ。著者は西田惣七氏。佐賀市で醤油醸造業を営む傍ら、市内とその近郊の川、堀を釣り歩いた。昭和34年2月、56歳で急逝。手帳にしたためられたものを次男・豊藏氏がまとめ、一周忌に出版した。県内の人が著わした釣りの本としては唯一のものといわれる。
昭和30年から亡くなった月までの4年余。松の内からいそいそと寒ブナ釣り、水ぬるむ春はハヤ、ヤマメに興じ、夏は清流にアユを求め、秋はハゼの数釣り、ヘラブナとの駆け引き…と四季折々、寸暇を惜しんで出かけた。天候や場所、えさ、釣果などとともに上記のような「心得」も記されている。
「とにかく研究熱心でした。風呂上がりに翌日の仕掛け作り。空き瓶に水を張ってウキのバランスを確かめたり、座敷から庭に竿を延ばして調子を見たりしていた」(豊藏氏)。
関東地方では古くから親しまれていたものの、九州では珍しいアユのドブ釣り(毛針釣り)やタナゴ釣りにも挑戦。特に佐賀でクソバヤ、ニガブナと呼び、ハヤ(オイカワ、カワムツ)やフナより下位に、あるいは雑魚扱いにされるタナゴ類も「冬場に小川の堰下のたまりに集まっているのを、細くて短い専用の竹竿で狙っていた。繊細なアタリと数釣りが面白かったのでしょう。」(豊藏氏)という。
自家用車が普及していない当時、交通手段はもっぱら自転車かバス。遠出ともなると道具一式を抱えて「午前3時24分発鳥栖行き、5時35分日田行き、7時3分日田着、7時30分杖立行きバスにて大山川上野瀬部下車…(アユ釣り)…帰り6時20分のバス、日田駅発7時13分、鳥栖発8時38分佐賀着9時半」(31年8月16日)。夜汽車に揺られる釣行。今思えば大変だが、楽しかったに違いない。
釣ってきた魚は妻のナヲさん(平成4年没)が料理。ハヤや子ブナはヒボカシ(焼き干し)、近くの神社の秋祭りには、フナの昆布巻きがくんち料理として家族に振る舞われた。川魚は保存食として大切にされていた。今では荒廃してしまった堀や、改修工事で様相が一変してしまった河川もしばしば登場する。佐賀の自然や人々の生活の変遷を知る上でも興味深いものだ。高度成長期前の「あの川 この堀」。懐かしさとともに、さびしさを禁じ得ない人も多いだろう。
※冒頭の日記(昭和32年2月17日)の中に出てくる「鵜入れ」「鵜入り」は118、119ページ、平野正徳氏が「野鳥と魚」でも指摘している鵜匠によるものだろうか。